あぶれん坊万歳!!

エンタメ同人誌aBreのブログです。2015年5月4日第二十回文学フリマ東京(C-32)に参加します。

「恋がはじまる野良猫雑談」垂崎依都

この掌編は『aBre』第一号収録の「たとえばこんな恋愛瑣談」(垂崎依都)の前日譚です。どなたもお楽しみいただけるかと思います、どうぞゆっくりご覧下さい。

  →『たとえばこんな恋愛瑣談』の立ち読みはこちら

それでは、お楽しみ下さいませ。


「恋がはじまる野良猫雑談」


 桜が咲いていた。といっても、見上げると空がほんのりピンクに煙(けぶ)る三分咲き。もう数日は陽気がつづくみたいで、ちょうど入学式には満開かもしれない。そう思うと柄にもなくうきうきした。
 年度が替わったばかりの日、私はまだ慣れない土地を散歩がてら探索していた。少なくても大学周りの地理は知っておかないと痛い目を見そうだし。入試とその前のオープンキャンパスで来た大学を通りすぎて、塀越しに並木が覗くほうに行ってみる。公園かと思ったら、どうやら学生寮らしい。近くにアパートを借りた私には無縁のところだけど、桜並木に誘われてそろそろと敷地に踏み込んだ。
 きょろきょろとお上りさん丸出しで歩く私は、時たまものすごい勢いで通りすぎる自転車の邪魔にならないよう、道の端っこを進む。ああいう走り方をするのは上級生だろうなぁなんて、根拠のない確信をもって暴走自転車を見送った。歩けども歩けども緑とピンクと学生寮。たまに駐輪場もあるけれど。
 変わり映えのしない風景に飽きて、そろそろ引き返そうかと思ったとき、ふと蹲る人影を見つけた。ひとつの棟の入口に近い、駐輪所との間の草むら。そろそろと近づいてみると、その人影は男の子だとわかった。視線は足元に縫いとめられていて、その先には小さな猫がいた。
 ざわ、と猫好きの血が騒いだ。猫はこの距離でもわかる器量良し。片方の前足で、ときには両前足で頭上の目標を捕らえようとするさまがなんとも愛くるしい。私は猫を驚かせないように、じりじりとことさら慎重にひとりと一匹に近づいていった。
 猫が夢中になっているのはねこじゃらしだ。それも実用性に乏しい植物のねこじゃらし。正式名称エノコログサ、イネ科の一年草で子犬であるところの狗(えのこ)の尾っぽに似ているからその名が、その穂で猫をじゃらすことからその異名が付いたという。でも実際は、ただの紐や毛玉のほうが猫はじゃれつくのだけれど。ねこじゃらしでああも猫を虜にするとは、彼はなかなかの手練れのようだ。
 あと数歩というところまで近づくと、彼も私に気づいたようでこっちを見上げてきた。それでもねこじゃらしを振る手は止めないあたり、なんというかさすがって感じがする。
「君の猫、ですか?」
 見た感じ、あまりこの土地に慣れた年上とは思えなかったけど、いろいろ考慮してちょっと丁寧に話してみる。だけど初々しさは相手も感じたことのようで、返ってきた言葉は砕けていた。
「いや、さっき知り合ったばっかりだけど」
 猫に「知り合い」とか言っちゃうあたり、彼は同好の士のようで。一気に親近感が湧きあがる。動物好きに悪人はいないっておばあちゃんも言ってたし。私はひょいっと彼の隣にしゃがみこんだ。ちょっと勇気が要ったけど、彼は心優しくも猫をじゃらす位置を私に寄せてくれた。なんていい人だろう、さすが猫好き。当の猫は私に一瞥をくれて、すぐにねこじゃらしに夢中になった。ちょっと寂しいけど、こんな近くでかわいい姿が見れるなら充分か、と無意識に顔が緩む。
 そうしていると、目の前にねこじゃらしが差し出された。きょとんと彼を見ると、やんない? と訊かれる。ありがたく受け取ってじゃらしてみるけど、猫はそっぽを向いてしまった。もともと猫を遊ばせるのはうまくないから、予想できた展開だったけど。お互いに苦笑してねこじゃらしは彼の手に戻った。やっぱり彼だと猫はこれでもかというほどじゃれつく。
 私がおとなしくひとりと一匹の戯れを見守っていると、彼はねこじゃらしを振っているのとは別の手をそうっと猫に伸ばした。なにしてるの、と訊きたかったけれど彼が放つ緊迫した空気が許してくれそうにない。気取られないように伸ばされた手は毛並みに届く直前、鋭い爪に追い払われた。おっと、と言いながら手を引いた彼は、残念そうにねこじゃらしで遊ぶ猫を見ている。
 もしかして、ここまで仲良さそうにしておきながら、まだ触らせてもらえてないんだろうか。変なの、と思いながら、私はおもむろに手を伸ばした。彼が慌てたように声をあげるけど、猫は素直に私の手を受け入れた。驚く彼をよそに、私は調子に乗って小さな躯を抱き上げる。キャミワンピに爪を立てられたらどうしよう、とちらっと考えたけど、猫は胸元でおとなしく丸くなった。撫でてやると気持ちよさそうに目を細める。
「はい。今なら触れるかもよ」
 抱いたままの猫を差し出すと、彼は猫に視線を向けて逸らし、困ったように顔を背けた。
「や、いいし」
「いいから」
 ほら、と何故か遠慮する彼に更に猫を押し出す。彼はさんざん躊躇って、それでも誘惑には勝てなかったようで、おずおずと手を伸ばして猫の頭を撫でつけた。硬かった表情が一撫でするごとに優しくなる。頭から首筋、そして背に回ったところで彼の手は離れていった。どうせならちゃんと背中も撫でてあげればよかったのに。なんとなしに見ると、彼は明後日の方向を向いていて、そのまま口を開いた。
「アリガトウ」
「どーいたしまして」
 なんで片言なんだ、と内心ごちつつ彼の謝辞に私はにこやかに返した。よほど撫で心地がよかったのか、彼の耳と頬が微かに色づいている。確かに野良とは思えないくらいの毛並みだもんね、と私はおとなしく腕のなかに収まっている猫を愛でた。
「あ、おい!」
 彼が不意に叫んだと思ったら、無遠慮に二の腕を掴まれて引っぱられた。あたたかくて硬いものに鼻をぶつけた痛みを感じたと同時に、すぐ横を何かがものすごい速さで風を切り通り過ぎる。
「危ねぇ……このあたりってほんとに激チャリ多いな」
 カチコチに固まったまま、私はその言葉を聞いた。両の二の腕にある自分のじゃないあたたかさとか、さっき鼻をぶつけて今も目の前にあるものとか、かなり耳に近いところから聞こえた声とか、気になることは山ほどあるけど、とりあえず、
「激チャリ?」
 ってなに。
「え、あ。激走チャリンコの略で……そっか、ローカルだったのか」
 私の呟きにしっかり答えてくれた彼は、ちょっとだけ照れくさそうにしていた。なるほどね、とも思ったけど、実はあいにく、そんなことよりも先にどうにかしてほしいことがある。ワンクッションおいてみても彼は気づかなかったようなので仕方なく、
「あの、さ、手」
 端的に、私は告げる。へ、と間抜けな声を出して、彼は自分の腕の先を目で辿った。
 今の状態は、そう、一言で言ってしまえば、抱き寄せられている、ということで。片膝をついた彼の肩口におでこを預けるかたちでもたれてて、それを二の腕に添えられた手で支えられている。根性で胸を少し引いたから抱いたままの猫は無事。とはいえ、この状況でもおとなしくしてる猫もずいぶんな根性だ。
 彼は状況を理解した途端、素晴らしい反応で私から離れた。勢いのまま立ち上がった彼は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせている。その上、追い打ちをかけるように電子音が鳴り響いて、彼は慌ててポケットを探り携帯を引っ張り出した。取り落としそうになりながらも通話ボタンを押す。
「っと、はい、もしもし」
 彼は携帯を耳に当てたままきょろきょろとあたりを見回して、通話を終えると同時に寮の入口に駆けていった。目で追うと、彼を待ち構えていたのは宅配屋のお兄さんで、彼に一抱えほどの段ボール箱を渡しながらぺこぺこ頭を下げている。もしかしたら指定時間から遅れたのかもしれない。
 なんとなく黙って見守っていると、荷物を抱えた彼がこっちを見て躊躇いがちに歩み寄ってきた。そのまま行ってしまうのも気まずいと思ったのかもしれないけど、あんなことのあとだから来たら来たで気まずいものがある。彼は目を泳がせて小さく手を上げた。
「えっと、じゃあ俺、部屋戻るから」
「あ、うん」
 もう一度、じゃ、と言って、彼は寮のなかに入っていった。そそくさ、なんて擬態語がぴったり。
 私は私でなかなか治まらない胸の鼓動をもてあましていた。まったく不意打ちもいいところだ、なんて零してみても顔の火照りは止められない。ふと、些細だけれど重要なことに気がつく。名前、言ってもないし訊いてもなかった。いやいや、絶対訊かなきゃいけなかったわけでもないけどさ、でも同好の士なんてそうそう見つかるものでもないと思うし、だからってこれっきりにしたくないとかまた会いたいとかそういうんじゃなくて、そう、袖振り合うも多生の縁っておばあちゃんもよく言ってたじゃない。私は小さく溜め息をつく。
「せめて学部くらい訊いとけばよかった」
 ね、と問いかけると、腕のなかの猫は答えるように、にゃあ、と鳴いた。
 この数日後、私たちは入学式の会場で思いがけない再会を果たすことになる。