あぶれん坊万歳!!

エンタメ同人誌aBreのブログです。2015年5月4日第二十回文学フリマ東京(C-32)に参加します。

「VIOLET」漆野束

この掌編は『aBre』第一号収録の「我楽多道中記」(漆野束)のスピンナウト作品です。どなたもお楽しみいただけるかと思いますが、本編の一部設定のネタバレとも受け取れる箇所がございます。ご承知置きの上お読み下さるよう、よろしくお願いいたします。

  →『我楽多道中記』の立ち読みはこちら

それでは、お楽しみ下さいませ。


「VIOLET」


 生きるために食べるために生きる。死ぬ。有限ループ。
 そこに〈生産〉をプラスする。有限であることには変わりないが、ループは破れる。イコール、生きる意味。めでたしめでたし。
「だからさ、あんたも群れに入ったらいい。家族を持ちなよ。今時流行らないだろう、一匹狼なんて」
 別に格好つけたくて一匹でいるわけじゃない。それに、俺は烏だ。狼でも人間でもなく。鵜の真似をするのも億劫なのに、四本足など真似るものか。
「人間が羨ましいわけでもないだろう」
 当たり前だ。俺の方がずっと、3Dで生きてるんだから。
 人間のくせに俺の言葉が分かるらしく、梅は呆れ交じりに少しだけ笑う。梅はまだ二十幾つかで、遊びまわっていても良い歳なのに、いつもひとりだった。
 くっと姿勢を低くして飛び立つ。また明日、という梅の声を背中に聞く。明日は燃えるゴミの日だ。どうせ会うことになるだろう。明日は敵として。
 白っぽい箱の並んだ街を眼下に、ぐっと高度を上げ都庁を目指す。ビル風に体を煽られながら、それでも上だけを見る。展望室の人間たちが目の端に映る。目一杯翼を広げ、ガラスに沿って降下する。霞んだ富士より、低くうずくまった東京ドームより、俺の方がまだ幾分かおもしろいだろう。ビルなんて軽く飛び越えてやる。俺が敵わないのは、雲だけだ。体一つでここまで来られない人間たちが、この街の支配者であるわけがない。ここは烏のための街。ゴミに溢れた、飯でいっぱいの街。
 近頃の人間は、何を食っているのかいまいち分からない。化学物質やら何やら、不自然な食べ物が多すぎる。安全な食べ物はほとんどないのだ。それでも一匹で居れば選り好みをしていても食いつなげる。生きるために食べるためにひとり。
 昭和通りは良かった。ゴミを信用できる。しかし梅の存在だけが厄介だった。大抵の人間はきっと睨めば目を逸らし、こそこそ通り過ぎて行く。目を見開いているだけで人間は避けて通るのに、梅は違った。俺に気安く話しかけ、時には説教すら垂れる。そのくせ俺の食事は邪魔するのだ。
 どうやら梅は、魔女らしい。梅の近所の女たちが言っていた。だからひとりなのだろう、と思うのだけれどそれは推測の域を出ない。
 日が傾くまでにはまだ時間があったが、そのままねぐらの熊野神社に戻った。中央公園に隣接するそれは大通り沿いにありながらもしんとしていて、人気がないのもまた良い。
 しかし今日は、境内に女の影が一つ。人間の美醜など烏には分からないはずなのに、何故か彼女は美しく見えた。そのまま元来た道を引き返したかったが、彼女の視線がそれを許さない。どうやらこちらが気付くより先に、彼女の方が俺に気付いていたようだ。一番高い木の梢に止まろうと思っていたのに、気付くと彼女の目の前の枝に止まっていた。
「梅のお友だちね。待っていたわ」
 彼女は大きな目で俺を見据える。決してきつくはないのに、強い瞳。彼女はカラスの間でも有名だった。新宿のもう一人の魔女。梅の天敵、鈴。
「ここ数日、あなたのことをずっと見てたのよ。仲間も家族もいないようね、梅以外には」
 俺に彼女を黙らせることはできない。代わりに木々がざわめき、まるで彼女の言葉を遮ろうとしているかのようだった。けれど彼女の艶のある声があっさりと葉ずれをかき消す。
「私のところにおいでなさい。きっと私は梅を消すわ。淋しくなってしまうでしょう?私もちょうど、ペットが欲しかったところなの」
 俺は応えない。飛び去ることは適わないが、しかし決して目は逸らさない。鈴は口角を上げ、余裕の表情で俺の視線を受ける。鈴の方が格上なのは明らかだった。窮鼠は猫に噛みつくが、俺が噛みついているのは何なのだろう。ただ見ることだけに集中していると、だんだん景色が輪郭を失っていった。
 中央公園に戻ってきた烏たちの羽音で、はっと我に返った。鈴はいなくなっていた。既に空は朱から紺へと変わり始めている。疲れていた。このまま寝てしまおう。
 空を自在に飛ぶ俺も、星を見たことはない。俺の飛ぶ姿を流れ星のようだ、と梅が言っても、全くぴんとこなかった。でもあんたは願いを叶えてくれないね、と梅は続けた。
 けれど俺はきっと、流れ星に伴走して何回でも願いを唱えてやれるのに。
 明日の朝は戦争だ。生きるために食べるために眠る。

 翌朝は俺の不戦勝だった。ゴミの収集所に梅はいなかった。優雅な朝食だ。しかし堂々とゴミを漁るのは何だかとてもつまらなく、いつもの梅に追い回されながらの食事の方が美味しい気がした。
 梅は昼間、どこで何をしているんだろう。俺の知る梅は昭和通りにいる梅だけだ。あいつだって生きるために、どこかで足掻いているんだろう。見たくなかった。けれど探してみようと思った。どうせ他にすることなど、何もないのだ。
 梅も俺のことなど、ほとんど知らないのだろうなと思った。俺の見ているものも、俺の好きなものも。空から見た新宿は紫に煙って見えること。この汚れて霞んだ街が、俺は意外に好きなこと。
 不本意ながら烏たちに情報を求めてみたのだが、奴らは何も知らなかった。しかし烏たちの間では、鈴が近々梅に手を出すらしいという噂で持ちきりだった。奴らの噂に振り回されるのは阿呆だ。けれど昨日の鈴の言動を考えると、ガセと片付けるわけにはいかなかった。
 ようやく梅を見つけたのは、正午を過ぎた頃だった。新南口から出てきた梅は伏し目がちで、いつもより小さく見えた。跡をつけるのは悪趣味だし、引き返そうと大きく旋回した時だった。ビル群の中、一際小さなビルの屋上に鈴の姿を見つけた。両脇に二人の男を従えている。中年というよりも壮年という言葉が似合う体格の良い男たちで、かたぎでないのは明らかだった。
 鈴は梅を挑むような目で見下ろしていた。梅の方は鈴に気付いていないようだ。鈴が男たちに何事か言うと、彼らは真下に向かって黒い筒のようなものを構えた。悪い予感がした。すぐに梅があの真下を通る。止めなければと思った。
 急降下をしてそのまま大通りを突っ切る。そして梅の正面に飛び出せば間に合うかも知れない。止まれ。そう叫んでもしわがれ声では届かない。正面から吹き付けたビル風をもろに受け、一瞬体勢を崩した。
 全身に叩きつけられたような衝撃が走った。痛みはなかった。そのままふらふらと梅の元を目指す。既に彼女は足を止めていた。何が起きたかは俺にも分かった。
「道路の渡り方、烏は習わないの?」
 梅は俺を拾い上げた。梅の手は感じられない。声だけが聞こえた。
「あんたの世界はさ、何でもはっきりし過ぎなんだよ。生きるか死ぬか、とか。もっと曖昧じゃ駄目なわけ?」
 駄目も何も。選んだ覚えなどない。
「この期に及んで、目を見開いてるんじゃないよ。ちょっと目を細めてごらん。世の中はもっと曖昧で、どうでも良いことばっかりなんだから」
 今目を閉じたら、死ぬだろう。けれどもう、視界は霞み始めていた。最後に、梅の笑い声を聞いた気がした。
「何だあんた、死にたくなかったんだ」

「家族が増えるよ」
 一階の引き戸の音で、梅が帰ってきたことが知れる。そのまま階段を上ってくる足音がして、梅は無遠慮に俺の部屋に入ってくる。
「何だ、そのぼろぼろの本。随分疲れてるな」
「六法全書だよ。人間のルールが書いてある。あんたは興味ないだろうがね」
「人間にするのか?」
「家族にするんだよ」
 懐かしいね、と梅は意地悪く言う。
「あんたが人になった時。鈴が私を殺そうとしていると思ったんだって? あれは水鉄砲だよ。カラーインクが入っていたようだから、たちが悪いのは確かだけれど」
 鈴のすることなどたかが知れている、と梅は鼻で笑った。
 俺はただの道化だった。しかも梅は俺を人間にするだけでは飽きたらず、子どもに戻してしまったのだ。梅の顔は皺が目立つようになった。対する俺は、ちょうどあの頃の梅くらいだ。
「まだ五年しか生きていなかったんだから。人間だったら、まだまだ子どもだ」
 相変わらず俺の思考は梅に筒抜けだ。せめて表情だけは見せまいと空を見上げた。紫色は欠片もない、水色と白の四角い空。時折黒い点が流れる。
「空が恋しいなら、のぼればいいじゃないか。ビルでも、山でも。ほら、あんなに近くに都庁がある」
「誰がのぼるか、あんなに低いところ」
 地面から見る空は、とてつもなく狭かった。本当の空は四角くなんかない、空に形など無いのだということすら、忘れてしまいそうだった。
「飛びたいのか」
 流れ星に願かけでもすれば良い、と冗談めかして梅は言う。
「烏の真似などするものか。それに羽がなくたって飛ぶ方法はある」
 地に足をつけて生きるなんて、更々ごめんだ。
「雲みたいに、霞みたいに生きれば良いのさ」
 道化で良いのさ。糸目を細め、口角を上げる。それで良い、と梅も笑った。